昭和41年05月16日 朝の御理解
御礼申し上げてもお願いを申し上げてもお詫びを申し上げてもその詫びが願いが御礼が神様に通う、聞き届けて下さる。そこから生まれて来るおかげは私しゃ同じだと思う。お願いは聞き届けて下さったと、言う事だけで、おかげが決まるのじゃない。もうおかげはもう、下さってあるのだから実をいうと。私共はおかげの中にあるのだから、そこのところが通いさえすれば。
必ずどうぞという願いが叶えばおかげになるけれど、願いだけではないと言う事。けれども私共としては矢張り願いと言う事の切実さ、痛ければ痛い痒ければ痒い。矢張りその事をどうぞ痛う御座います、痒う御座いますと切実に願わせて頂くので御座いますけれども。いろいろ信心が分からせて頂きますと、ほんとにお詫びをせねばならない事の、あまりに多いのにおどろく位ですから。
そこんところを、詫びれば許してやりたいのが親心じゃとこうおっしゃる。詫びる事に依って詫びが神様に通ったらおかげは同じじゃ。願う事だけじゃない、又おかげを頂きまして有り難う御座いましたと御礼申し上げたらです、その御礼が真実神様に通うた時に、それが次のおかげにならぬ筈はない。はあこの事を、お願いするのを忘れとったという人がありますけれど。
もちろん詫びも御礼も忘れる様な事では出来ません。詫びが真剣に出来たらそれでいいのである。御礼が真剣に出来たらそれでいいのである。どうぞ又お願いしますと言わんでも良いのだ。けれどもこれは、私共無力を感じれば、分かれば分かる程、縋らなければ願わなければおられんのですけれども、実を言うとそうなんです。玉水の願いといわれる、玉水といえば日本一的教会ですね。非常に願いが神様に通う様な願いが出来るのが、そこの教会の一つの御流儀らしい。
玉水の願い、大阪の玉水協会の事。甘木の御礼といわれている。御礼が行き届く、何を願いに行っても。何をお取次頂いても甘木の親先生の言っておられた事は、神様に様と御礼申し上げにゃならんばい。しっかり神様に御礼申し上げにゃならんばい。その神様に篤く御礼申し上げにゃならんばい。という。その篤い所が非常に意味慎重であったと言うておられますですね。
甘木で信心の稽古をした人達がどうでしょうか、あつく御礼申し上げならん、どげなこつお願いに行っても、どういうお取次願っても、あつく御礼申し上げにゃならんばい。このあつくと言われる時に、ああ御礼が足りん、御礼が足りんという思いがしたと言われます。もうそこんところを、甘木の親先生は思い込み、信じ切っておられた。御礼が行き届けばおかげになると。
ですから甘木の御信者さん方は大体非常に行き届いた御礼が出来られます。玉水の願いに甘木の御礼、私椛目といわれたらどう言う事になるだろうか。これはまあ、私の信心が皆さんの信心に伝わって行かねばならんとするならば、皆さんの中心はどう言う事になるでしょう。まあ海の物とも山の物とも分からんのが椛目なんです。そういう甘木とか。玉水さん辺りの様な日本一的それを持って居る教会と対照すると言う事は、おこがましい話ですけども、これはどんなに考えても。
椛目が段々おかげ頂いて行ったらですね、お詫びの椛目と言う様な事にならねばいけない様に私は思う。自分というものが分かれば分かる程、それにも関わらずこの様におかげ頂いている。もうお詫びせねばならぬ事のあまり多い事にほんとに、自分乍らへきへきとするくらい。お粗末御無礼である事が御礼の甘木なら、願いの玉水、お詫びの椛目と言う様な私しゃ事になるのではなかろうか。私自身の信心の中に、そういうお粗末御無礼な事が沢山あると云う事。
ですからお詫びが、私の場合が実感的であると言う事。それは願いよりも御礼よりも矢張り神様相済みません、私の祈りを占めて居る事、皆さんはどう言う事になって行きよるでしょうか。その一人一人の信心態度を見ておると分かります。お詫びするのに頭を上げ乍らお詫びする人はありますまい。それこそ平身低頭、御礼申し上げるでも、お願い申し上げるでも、声は同じでありましても、詫びると言う事は、尚更の事それこそ、大地にこの額を付けて詫びる。
昨日、正教さんが頂いている御神夢なんかもそうです。私が大地に平伏して耳納山と思われる方に向かって大地に平伏して、御祈念をしている姿を頂いて、終始感激して夢の中で感激しておったという。そして段々私の姿がなくなってしもうた。そして水溜りの中から忽然と又現れて、私が長男に若先生に、私が亡くなっても御霊の世界におっても、この世の世界に居っても、私の祈りは同じだ。何処から祈っても、何処に居っても同じだと言って。榊の枝を若先生に渡す。
久保山先生に久富先生にもう銘々が榊の枝を頂いて居るというお夢だったと言う。榊というのは神の木と言いますから、神ノ木とは神の心、言わば私の信心と言う事。私の信心を皆さんに伝えおると言う事。段々大地に平伏して、水溜りの中に消えて無くなってゆくと云う事は、お恵みの中に消えて無くなって行くと言う事は。私が肉体を持っているから、何時までも私がこうしておるという訳にはいかんのだけれども、その精神というものは、魂というものはあの世この世をかけての働きが出来るのぞ。
為には私の信心を皆さんが受けておって呉れよと言う事でもあろう。同時に私が私自身を空しゅうして行くと言う事。自分の我というなら我がなくなって行く事。我情我欲が私の中から消えて行く事。私が空しゅうなると言う事だと私は思うのです。そこで皆さんに信心を受け継いで呉れよと言う事であろうとこう思うのです。その大地に平伏して私が御祈念している姿の、その内容というのは何であったろうか。
恐らくお詫びであったろうと自分では思うのです。亡くなれば亡くなる迄、例えば相済まぬ私で御座いましたというお詫びに明け暮れる、言わば私でなかろうかとこれは自分で思います。ですから皆さんが、私の信心を受けて下さるなら、ほんとに自分というものを見極めさして貰うて。自分というものをいよいよ分からせて頂いて。とてもとても、とてもとても大きな事どん言える私じゃないと言う事。
大きな態度でも取られる私じゃないと言う事。それがどれだけ努めても努めても、そうだと言う事になってこなければ、ならぬのではなかろうかとこう思う。昨日現場の方の担当の方達のお届けなさっておられる時に、伊万里の竹内先生が神戸でしたか出張からの帰りに寄られました。私そちらの控えの方でお茶でも差し上げた訳ですけれども、私と久保山先生と三人でこう、して色々話をしておる中に。
親先生今そちらで、御祈念なさっておられる方は、どなたですかとこう言われるのです。勇さんが御祈念しておられました。昨日は勇さん外、三名四名です、おかげ頂いておりました。あの久富さんです、繁雄さんの弟さんですか、そうです繁雄さんの弟さんです。もう私は驚きましたと言われるんです。とてもとても、私共が言うて出る言葉では御座いません。金光様有り難う御座いましたと、そういうて御祈念しておられる時に、後ろを通られたんですね。
その金光様がとてもとても、私共から出て来る金光様とは違うと言われる訳です。恐らく私はまあ今日一日お使い回し頂いて有難う御座います。もあったろうけれど、私は勇さんの心の中に成程一日御用を頂いた、頂いたけれど、どういう御用だったろうか、果して神様が御祈念係としてです私は思うんですよ。はあ今日は四人もことだったので多過ぎた、私はいっちょん構わんです。それは四人は五人あってもいいです。
何故てあれをする、これをするのではないのですから。今頃椛目に勢信心が要求されている事はなかろうと思う。一人でも多くの人がしかもその事に取り組んでです、御造営のあの姿というものを目の前に眺め乍自分を肥しておると言う事。ですから私しゃ決して三、四人は多過ぎると言った様な事はない。十人づつでも私はいいと思うくらい。ですから例えば一日そうして御用頂いたけれども果して御祈念係としてのどれだけの御祈念が神様に通うだけの御用が出来たかと、それは私の想像なんです。
思うた時に神様相済みません御用で御座いました、金光様というそれが、勇さんの祈りの内容ではなかったろうかと。そん時感じた事でした。今日は一日御用頂いたというて。大威張りで帰って来る人はなかろうと思います。御粗末な御用振りで御座いました、見りゃ見る程にこうして、椛目はあちらに御用さして頂いておりますけれども、その御用の内容を思うた時に、あまりにも貧弱余りにも無力ほんとに。
神様の目からご覧になったら、神様にははがゆい思いをさしておる、だけではなかろうかと思う時に、金光様相済みませんでしたと、言う事になって来るではなかろうか。けれども私はそこへ気が付けばそれでいい。願いそして御礼それが神様に通えば、次のおかげになる事を申しました様に。切実に私共が、非を非と分からせて貰い。お粗末をお粗末と分からせて貰うて、本気で神様に通う様な竹内先生が感じられた様に、恐らく神様も感じておられると思う。
相済みません、金光様相済みませんとこう詫びると言う事。その姿勢態度に神様が動きなさらん筈はない。これでよいと言う事はないけれども、人間生身を持っておる事だからまあそれも止むを得ぬだろう。よかよかおかげの方は引受だぞと、神様がそのお詫びに対して言うて下さる様な感じがするのです。問題は私共が願わなければならないどころではない。御礼申し上げにゃならんどころじゃない。
けれどもそれが神様に通う所の、私は祈りと言う事になって来る為には、今日も御用にお使い回し頂いて有難う御座います。と云う御礼であったならば、充分に御用にお使い回して頂いていないと私は実感の御礼は出てこないと。例えば農家の方が一生懸命取り上げをなさる。もうほんとに息つく暇もない様に一生懸命御用頂いた、という時には今日はもういよいよ、今日も御用にお使い回し頂いて、ほんとに有難う御座いましたと実感を以て言えるだろう。
すてんぽてんしとってからしだこだな御用をしとってから、はあ今日もおかげ頂きましたといっても通じんでしょうもん。神様が今日という今日は、ほんとに腰の抜ける事御用にお使い回し頂きました。という時だったら初めて、今日は御用にお使い回し頂いて、有難う御座いましたと言う事になるでしょうもん。ですからその御礼が矢張り、御用が出来ておらなければ、御用が出来た事の御礼になって来ない様に、私共が詫びるというその事に実感した。お詫びでなからなければお詫びに通じない。
通じてこそ初めて私は次のおかげの道が開けて来るとこう思うのです。願いの玉水、御礼の甘木という風に言われるのですけれども。私どうも私の信心性格からもうほんとに詫びねばならん事の余りにも多いので御座いますから、これは私に通じる皆さんでも同じでは無かろうか。そこに実意丁寧謙虚な、言わば態度も自ずと出て来る。言う事も思う事も為す事も矢張り、実意丁寧がにじみ出て来る。そこから神様に対する真剣なお詫びが出来る時、詫びれば許してやりたいのが親心じゃというおかげが開けて来ると思うのです。
どうぞ